雪合戦

          

 「吉祥丸、どこにいるんだ。」

 山寺の境内を少年の僧が駆けていった。満開の桜の花びらが風に舞っていた。

「なんだ、そんなところにいたのか。」

まだ僧形になっていない小さな男の子が、山門に寄りかかってうつむいていた。

「写経がはじまっているよ。部屋に戻ろう。」

「やだ。僕、家に帰りたい。」

「まだ寺に来て一月じゃないか。」

「だって、お経覚えられないし、字も書けないし…。」

「ぼくが教えてあげるよ。さあ、行こう。」

二人は手をつないで走っていった。

 

それから毎晩、蝋燭の明かりの下で吉祥丸にお経を教える法性の姿があった。

夏が過ぎ、秋が過ぎ、粉雪が舞う頃には、吉祥丸はお経を覚えて字が書けるようになっていた。

 

一晩中雪が降り積もった翌朝、久しぶりに青空が広がっていた。

法性が参道の雪かきをしていると、吉祥丸が膝まで雪だらけになって走ってきた。

「ねえ、雪合戦しよう。」

「だめ、まだ雪かきがおわってない。」

「ねえ、ちょっとだけ。」

「だめ!」

「けち。」

 吉祥丸が雪玉を投げた。雪玉は法性の足元に落ちた。

「吉祥丸、下手だな。こうやって投げるんだよ。」

 法性が雪玉を投げた。吉祥丸の胸にこつんと当たった。

「やったな。」

 吉祥丸が雪玉を投げた。今度は法性の肩先をこえて落ちた。

「吉祥丸、やっぱり下手だな。」

「なんだと。」

 吉祥丸が雪を抱えた。粉雪が青空に舞った。    

「やーい、法性まっしろ!」

 今度は法性が雪を抱えた。また粉雪が舞った。

「吉祥丸だって。」

「ははは。」

「ははは。」

二人の笑い声がつかの間の青空に響いた。

 

その晩、都から早馬の使者が寺に来た。

「吉祥丸様、お父上様がお倒れになりました。直ちにお帰りください。」

 不安そうな吉祥丸の目を見つめて法性が言った。

「お父上はきっとよくなられるよ。そしたら戻ってきて、また雪合戦しよう。」

「約束だよ。」

「約束だぞ。」

 吉祥丸を乗せて早馬は闇に消えていった。吉祥丸はいつまでも手を振っていた…。

 

「僧正様、都から使者が戻りました。おや、お休みでしたか。対面は明日になさいますか。」

「いや、ちょっと、うとうとしていただけだ。使者をよんできてくれ。」

「かしこまりました。」

 僧正は写経の手を進めた。蝋燭の炎がかすかに揺れた。

(夢であったか。あれが吉祥丸の姿を見た最後だった。その後右大臣になられたと、風の便りに聞いたが…。)

「ただいま戻りました。」

 旅姿の僧が部屋に入ってきた。

「ご苦労であった。して、都の様子はいかがであった?」

「それが大変な騒ぎでございました。先ごろ内裏に雷が落ちて、左大臣様のゆかりの方々が何人もお亡くなりになりました。噂では、左大臣様の陰謀で遠方へ流されてなくなった、右大臣様の祟りだといわれています。」

「右大臣様がお亡くなりになったのか。」

「はい、ひと月ほど前に、ご病気で。」

「ご苦労であった。もうさがってよい。きょうはゆっくり休むがよい。」

「はい。」

(吉祥丸が亡くなったか…。)

 

 その晩、僧正は夜通し経を読んだ。丑の刻のころ、風もないのに蝋燭の炎がふっつと消えた。暗闇の中に、衣冠束帯をした男の姿が浮かんだ。

「僧正殿、山寺で、夜、よくそなたに経を習ったのう。」

 遠くを見るようなその眼に吉祥丸の面影があった。

「右大臣様!」

「いかにも、わしは右大臣じゃ。今日はそなたに頼みがあって参った。わしが雷を内裏に落としたので、内裏ではわしを調伏する護摩だきを計画しておる。近々そなたが呼ばれるでああろうが、昔のよしみで、どうか断ってもらいたい。」

「右大臣様、この寺は内裏の祈祷所。一度や二度はなんとか断れましょうが、再三の依頼があっては断れませぬ。栄枯盛衰はこの世の習い。左大臣の世も長くは続きますまい。どうか心を静めて成仏してくださいませ。」

「ならぬ。わしのみでない。息子たちまで流されたのだ。幼い子供は長旅に耐えられず亡くなった。この恨みを晴らさずにおられるか。どうしても断れぬというのか。」

「はい、どうしても。」

 右大臣はかっと目を怒らせると、口からばっと炎をはいた。炎は扉に燃え移った。

 僧正は印を結んで呪文を唱えた。炎は消えて右大臣の姿も消えた。

 

 数日後、内裏から僧正へ怨霊調伏の依頼があった。僧正は二度までは断ったが、再三の依頼を断れず、内裏へと上がった。

 月のない闇夜だった。

 内裏の庭に護摩だきの炎があかあかと燃え上がった。僧正が経を読み始めた。すると、にわかに黒雲が沸き上がり、地をゆるがすような声が響いた。

「わしの邪魔をするな。」

 黒雲の中に、炎に包まれ凄まじい形相をした右大臣の怨霊の姿があった。怨霊の手から金色の稲妻が放たた。僧正の周りが燃えた。僧正は経を読み続けた。僧正が印を結ぶと、その手から銀色の光が矢となって放たれた、怨霊の背後の炎が小さくなった。金の稲妻と銀の矢の応戦が続いた。僧正の周りは火の海となり、怨霊の背後の炎はだんだん小さくなった。僧正がこん身の力を込めて印を結んだ。銀色の矢は大きな玉となって怨霊の胸に当たった。

「うっ。」

怨霊の背後の炎が消えた。怨霊の顔が吉祥丸に変わった

「やったな、法性。」

怨霊は最後の力を振り絞って稲妻を投げた。雷は僧正の足元に落ちて、小さな火花を散らした。

「吉祥丸、やっぱり下手だな。」

僧正が笑った。その眼は涙で光っていた。

 怨霊も笑った。その顔は穏やかな右大臣に変わっていた。

「さらばじゃ。」

怨霊は手を振りながら黒雲とともに消えていった。

 

 その後、内裏で異変が起きることはなくたった。人々は僧正の徳をたたえ、内裏は僧正に大僧正の位を与えた。しかし、僧正はすべての位を辞退して山寺にこもり、その後は右大臣の菩提を弔って静かに一生を終えたという。