硯の記憶

 

「物は百年たつと、魂が宿るんだよ。だから、骨董を売るときは、物が気に入るように売ってやらないといけない。お嫁に出すようにね。」

  亡くなった父は、骨董の商売を始めたばかりの私によくこういっていた。だが、父の店を継いで三年たった今でも、私にはまだ物の魂というのがわからない。昨日、さる旧家の代替わりで蔵にあった器物一式の販売を任されたのだが、さあ、いったいどうやって売ったらいいのか。

 

 日が暮れ、今日はもうお客もきそうにないので店じまいをしようか思った矢先、店の戸がカラリと開いた。

 「こちらに何某家の硯があると伺ったのですが、見せていただけますでしょうか。」

 白髪をきれいに結い、とび色の着物をきた品のよい老婦人だった。

 「何某様のお品は預かっておりますが、お家の格式を守るため、しかるべきところへお売りするようにと申し付かっております。どのようなご事情でお探しでしょうか。」

 「その硯は、私が仕えておりましたご婦人の物で、長らく探しておりました。硯のいわくを聞いていただけますか。」

 「ええ、伺いましょう。」

  私が椅子を進めると、老婦人は静かに座って話し始めた。

 

「昔、さるご大家に非常に聡明な若君がおられました。古今の書物に精通し、美しい字をお書きになるため、特別な文書を作る際は、父君から家宝の硯で文字を書くことを任されておりました。

  この若君の身の回りの世話をするために一人の少女が雇われました。田舎から出てきたばかりの少女には、都の大家の暮らしは見るもの聞く物珍しく思われました。

  少女が若君の机を掃除していると、家宝の硯が目に留まりました。鈍い光を放つ黒い硯には、繊細な模様が彫り込まれ、亀の足の飾りがついていました。

 「なんてきれいなのかしら。」

  少女が硯を手に取ってうっとり見つめると、重い硯は少女の手を滑り、床に落ちて大きな音をたてました。少女が慌てて拾い上げると、亀の足の一本が欠けておりました。

 「どうしたのだ。」

  大きな音に驚いた若君が部屋を覗き込みました。そして、少女の手に、硯と折れた亀の足を見つけると、一瞬困った顔をしましたが、涼しい目で少女を見つめて言いました。

 「これは大事な家宝だ。そなたが壊したとなっては、きついお咎めがあろう。これは私が壊したことにする。他言するでないぞ。」

  若君が硯を壊したと知らされた父君は大変お怒りになり、若君を寒い座敷牢に閉じ込めました。もともと体の弱かった若君は、そこで体を壊され、間もなくお亡くなりになりました。

  若君がお亡くなりになると、父君は我に返って思いました。

 「私は取り返しのつかないことをしてしまった。どんなに大切な家宝でも、人の命にまさるものはない。このような硯はもういらない。すててしまえ。」

  少女は硯をもらい受けると、仏門に入り、その硯でお経を書いて若君の菩提を弔いました。

  私がお仕えしていたのはその尼君です。硯をお見せいただけますか。」

 

 老婦人の話をきいた私は、店の奥から硯を持ってきて、老婦人の前に置いた。

  老婦人はにっこり笑って言った。

 「ああ、これ、この硯。」

  するとそのとき、店の戸がからりと開いて、きれいに白髪を整え、黒い着物を着た老紳士が入ってきた。老紳士は涼しい目で老婦人を見つめていった。

 「やっとお会いできましたね。」

  老婦人は少女のようにほほを染めていった。

 「お懐かしゅうございます。」

  私はその場にいてはいけないように思われたので、奥に入ってお茶の用意を始めた。お茶を注ぐ音に紛れて、店先からかすかに声が聞こえた。

 「お別れしてから何年でしょう。」

 「百年になります。」

 「まあ、そんなに。」

 「これからはずっと一緒ですよ。」

  私がお茶を持って店に出ると、二人の姿はなく、たた、机の上に硯と、とび色の軸に白い毛の筆があるだけだった。

 「必ず一緒にお売りしますよ。もう離れ離れにならないように。」

  硯と筆をしまうとき、筆は嬉しそうに揺れて見えた。